「es」あれこれ

ドイツの「Witz:ジョーク」をもう一席:
 ある若いカップル(Liebespaar {n})の話。「♫ 半年過ぎても/あなたって手も握らない」と松田聖子さんの歌でもないですが、彼女は奥手の彼に不満がありました。思い切って彼を山のキャンプに誘いました。夜になって、別々のシュラフながら同じひとつのテントの中で彼女は言いました:
  寒いわ:Es ist kalt.
彼に何の反応もありません。そこで彼女は「いつも私がこう言うと、お母さんがベットに入ってきて私を抱きしめてくれるの」と言い添えて、今度は
  寒いわ:Mir ist kalt.
と甘えるようにささやきました。彼はズバッと起き上がると、急いで山を下りて行きました、彼女のお母さんを呼ぶために。

 ジョークを解説するとジョークが死ぬことは前にも言いましたが、そうしないと次に進めないので:
 先ず最初の「寒いわ」は
  Es ist kalt.
これは気候的(klimatisch)に寒いという客観的な意味です。次の
  Mir ist kalt.
は「Mir」を付けたことによって、自分が寒いという主観的な意味に変わりました。文法的には「Es ist mir kalt.」でしょうが、普通は「Mir」を文頭に持ってきて、さらに「Mir ist es kalt」ではなく主語の「es」は省かれ「Mir ist kalt.」となります。ここまで言えば話の落(おち)を説明する必要はないですよね。

 「es」は便利な単語です。この例の様に省かれてなお存在感があります。「省かれる」と言えば、こんな詩の一節を知っていますか:
  Sah ein Knab’ein Röslein stehn,:童は見たり、野中の薔薇
  (原詩:Goethe/訳詞:近藤朔風)
ゲーテの「Heidenröslein:野ばら」の冒頭の一節です。ところで疑問文でも仮定文でもないのに、なぜ定型倒置になっているのでしょうか。実はこれドイツ語の古語で、本来は「Es sah ein Knab’~」のはずのところ、詩的表現のためか「Es」が省かれたのです。

 「zu不定詞」を使って英語の現在進行形を表すために、以前にこんな文章を書きました:
  Ich bin gerade dabei, ein Buch zu lesen.
  私は本を読んでいるところです。
あるいはこんな文章はどうでしょうか
  Sie brauchen nichts zu bezahlen.
  あなたが払うことはありません。
これらには「zu不定詞」に修飾される副詞や代名詞があります。しかしない場合はまた「es」の出番です。
  Ich liebe es, Tiere zu malen.
  私は動物を描くのが好きです。
  Ich bereue es, mit dem Rauchen angefangen zu haben.
  私は喫煙を始めたことを後悔しています。
  Ich ziehe es vor spazierzugenen.
  私は散歩が好きです。
  Ich lehne es ab, Geld dafür zu nehmen.
  私はそれに対し金銭を受けたくない。
ここで「es」を省くことはできません。これらの述語動詞の性質として「zu不定詞」に修飾される「es」を必要とするからです。

次の独文は、大量のネジの成績書(Zeugnis)に日本人が書き記したものです(そのままでは支障があるので少し書き換えてあります):
30 Stück von den gelieferten Schrauben wurden geprüft.
出荷したネジの一部を検査したと言っています。検査はすでに終わっているならば現在完了形にして欲しかったのですが、それはともかく主語の
  30 Stück von den gelieferten Schrauben
は頭でっかちでしょう。これを頭とするならば首に相当する
  wurden
が折れてしまいそうです。書いた人には失礼ですが修正します。ここは「es」を文法上の主語に使って
  Es wurden 30 Stück von den gelieferten Schrauben geprüft.
ではいかがでしょう。少しドイツ語らしくなったのではないでしょうか。言うまでもなく「30 Stück von den gelieferten Rohren」は意味上の主語です(「wurden」が依然、複数形のままであることに注意)。もちろんこれをベストとは言いませんが。

「独文は軽い単語が前に来る」とはあるドイツ語教師の言葉です。恐らく字数が少ない単語を指して「軽い」と言ったのでしょう。水にものを投げ込むと軽いものは浮き、重いものは沈む道理です。その最たるものが「es」です。このように主語を退かして文頭に現れたりもします。